メメント・モリ

2011/01/06 17:16:33

テーマ:思うこと

先日のこと

前々から、相談に来たいと言われていた方がいました

50歳になる男性
依頼に来たのはその方のお姉さま

彼は少し前に離婚されて、いまは一軒家に一人住まい

子供たちも独立して
隣の家にはお父上が住まわれてますが、あまり行き来はない様子

それまでは仕事にもちゃんといかれてたようですが、ここ2ヶ月は仕事も休みがちになってしまったとのコト

ちょっと元気がないんです、とはその方のお姉さまの言葉

ちょうど私が満月斎を実施する日は、その方の誕生日でした

お姉さまも、いいタイミングだからとおっしゃって待ってらした

でも、夕方になってもご本人がいらっしゃらない

お姉さまが家に呼びに行ったのですが、犬がいて中まで入れなかったとのこと

携帯も出ない

時間も遅くなったので、じゃあ明日にしませんか?と、話しました。

お姉さんも悪がって、すみませんすみませんと、謝って帰られました

それから一時間後、お姉さまから連絡がありました

彼が亡くなっていた、と。

お誕生日だからと、彼の息子さんがプレゼントを持って家に入ったところ、既に息を引き取っていたと、連絡がありました。

自殺?と、案じたところ、検死の結果、くも膜下出血で亡くなられていた。

実はその前の日、全国的に荒れた日で、その家も突風で屋根が吹き飛ばされてしまっていたのです。

近所の消防団の方も手伝ってくれて、その日のうちに屋根を修復したのだそうです

彼の今生での最後の仕事

慣れない事をしたせい?

お姉さんはパニックを抑えつつ、私に聞きました。

私としても、予約を入れていただいた方がその日に亡くなるというのは初めての経験

それも、その方の誕生日の日

これには余程のメッセージがありそうですね

現代において、亡くなるという事はあってはならないこと、最悪の事態と捉えられているのが常識

医療においても、死とは失敗を意味している

死なせてはならない

なんとしても、生きながらえるように処置をして、救命装置をつける。

本当にそれが正しいのか?と疑問に思うことがあります。

人には自らが定めた寿命がある
生まれる前にね

その寿命を全うすることで、魂は死を超えて再生のステージに入る

それを死んではいけない、なんとしても生かすという医療が正しいのか。

全く反応のない状態で何年も生を続けることが正しいことなのか?

本来、死とは誰にでも来る一つの通過点

死という経験を超えて、次の生を見つめるために魂の本質に戻る

本人は「やれやれまた一つの経験が終わった」と思っているのに、なかなか魂に戻らせてくれない

いつまでも体の中に閉じ込められたまま

それが本当に本人のため?

私は父を一昨年に亡くしました

76歳でした

前の日まで、ちょっと体調は崩しながらも普通に生活していた

ちょうどその前日、私は沖縄から帰ってきたところでした

体調を崩しているというので聞いてみると、大丈夫とのコトだったのでその日は休みました

次の日、弟が部屋を見に行くと既に父親は息を引き取っていました。

眠るように、自分の部屋で、苦しむ表情もなく亡くなっていました。

現代では、医療機関にかかっていない突然死は事件扱いになります

救急車を頼んだところ、駆けつけた救急隊員さんに

「すでに死後硬直が始まっているので、救急車で運ぶことは出来ません。警察を呼びますので、少々お待ち下さい」と告げられました。

死因は上部食道出血

誰にも迷惑をかけず、私が帰るのを待っていたかのように父親は魂に戻ったのですね

あまりにも突然で、ただただ涙が流れました

むやみに悲しいという気持ちが湧き上がったのは初めてです

生涯26回も転職をして、57歳で仕事をやめて家の事はすべて私に任せてからは、毎日自分の好きなことをして20年生きてきた父

私はそんな父に対して沢山の葛藤を抱えていました

でも不思議なもので、父の顔を見ているとそんな葛藤も一瞬にして消え去ってしまった

そこには生きていた時の笑っているイメージしかありませんでした

オドケて、いたずら好きな父
山登りが好きな父
お金がないとき、自分は何も食べないで、私たちに分け与えてくれた父
笑って、楽しかった思い出しか湧き上がらない

火葬場で最後のお別れを告げると、あっという間に肉体が焼かれて骨となります

焼かれた骨を前にして、職員さんに骨の説明を受けました

「この方は骨太でいらっしゃるから、骨壷も一番大きいものにしましたよ」

父親は150cm位しかありませんでしたが、骨は頑丈だった様ですね

「普通は喉仏というと前から見た首の突起のことを指しますが、本当はこれなのです」

といって、見せてもらったのが頸骨の何番目かの骨で、仏様が座っているような形になっていました

「この方の骨は焼かれてもちゃんと喉仏が形で残っていましたね。珍しいことです。これをお骨の一番上に載せて蓋をしましょうね」

といって蓋をした骨壷を渡してくれました

死というものに正面から向き合い始めたのがその頃

人は必ず死にます

その死から生を考える

その視点に立った時、今日一日、今の一分一秒が大切に見えてくる

無駄にしてはいけないと思えてくる

チベットにおける「メメント・モリ」も、その事を説いている

親鸞さんも同じようなことを仰ってらした

今、その意をますます掘り下げようとしている私がいる

自分で書きながら、涙が止まりません

最近、涙腺が弱いようです