源義平の墓参り

2011/08/20 11:07:54

テーマ:思うこと

義平山 清泉寺

ここ群馬県太田、以前の新田郡尾島には私の先祖である源義平の墓があります。

photo:05


photo:06



源義平とは、平安末期に源氏の頭領源義朝の長男として生まれ、悪源太義平(あくげんたよしひら)という異名を持つ平治物語の主人公となる武将でした。

photo:02



母親は違いますが、鎌倉幕府を開いた源頼朝の兄であり、壇ノ浦に平家を滅ぼした源義経の兄でもあります。

彼は十五歳の時に、一族である叔父の義賢(木曽義仲の父)と戦い、これに勝ったことで悪源太と呼ばれるようになったといいます。

「悪」とは、当時の言葉では強いとか、勇猛という意味。
「源太」とは、源氏の長男として認められていたということ。

そんな義平も平治の乱では、父義朝に伴って平清盛らと戦い、破れてしまいます。

義朝一行は美濃までくると別れ離れになり、義平は越前九頭竜川上流の穴馬村まで逃れて来ました。

村の長、朝日助佐衛門は義平をかくまうにあたり、娘のおみつに身の回りの世話をさせていました。
やがておみつは義平の子を身ごもります。

しかし、義朝が討たれたと聞いた義平は、父の敵を討つために京へ上る決心をしてしまいます。

義平は産まれてくる子どものために自分の身につけていた太刀と白旗、そして1本の青葉の笛をおみつに授けたといいます。

photo:01



その時に生まれた女児が朝日の家を継ぎ、代々大切に笛を守って来たのだそうです。

私の母親は朝日ヒロ子といいますが、実家は福井足羽にあり、家系図も残っていたので、義平の血脈ということがわかったのでした。

その時の青葉の笛が、義平から37代目の子孫宅に家宝として残っています。

photo:03



ちなみに青葉の笛といえば、平敦盛が有名ですね。

織田信長が好んで舞ったという「幸若舞」の「敦盛」では、

思へばこの世は常の住み家にあらず、草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし。
金谷に花を詠じ、榮花は先立つて無常の風に誘はるる。
南楼の月を弄ぶ輩も、月に先立つて有為の雲にかくれり。
人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり。
一度生を享け、滅せぬもののあるべきか。
これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ。
と、無常を謳い上げています。

さて、義平はその後、単身京都に入って清盛を討とうとしますが、それもかなわず石山寺にいるところを捕らえられ、六条河原で難波何某に斬首されてしまいます。

その時に叫んだのが「おのれはワシの頸をはねるほどの者か? さもなくば後々雷となって仇を打ってくれようぞ」という言葉であり、難波何某は神戸布引の滝でその通り、雷に打たれて亡くなったのでした。

photo:04



物凄い言霊ですね。
義平はまだ二十歳といいます。

では、なぜ義平の墓が太田にあるのでしょう?

実は、義平の妻が、源氏の一族でこの地に住む、新田義重の娘、祥寿姫だったのです。

彼女は、義平が斬首されたことを知り京に上り、夫の首を密かに持ち帰ります。
これを埋葬して弔ったのが義平山清泉寺といいます。
いまでは人もあまり来ないらしく、天然の日本ミツバチが古木に巣を作っています

photo:07



彼女の法名は妙満尼。
ここでも「満」繋がりを見つけました(^-^)/

今日は、このお寺で義平の供養をしていきます。

photo:08